儚            櫻子




あれはとても暗い夜。
お月様もあつい雲に遮られた夜だった……。



どさささっっ!


突然窓の外を何かが横切っていった。それは黒くて……。
おそるおそる窓の下をのぞき込んでみると、何か固まりのようなものが。
「……」
じっとその固まりを見つめていると、それはかすかに動いているように見えた。
    怖い
その感情が確かにあったけれど、なぜか、衝動に突き動かされた。
いかなきゃ
綸を突き動かした感情は何かわからない。
けれど、幼い少女はなぜか階下へと必死に走った。裏の扉をあけて、その固まりがあるであろう場所へと急ぐ。
呼吸が乱れてくるしい。
鼓動がせり上がってくるような錯覚を覚える。
それでも走った。
その黒い塊のもとへ……。
傍らに立ち荒い息のままに問う。
「……あなたは何?」

年に反して穏やかな瞳で、けれど乱れた息は幼く、綸は問うた。
眼前の明らかにヒトとはことなる存在に。
「……去れ…我にかまうな。」
大きな翼を真っ赤な鮮血に染めたソレは言う。
綸は小さな手をぎゅっと握りしめて注意深く「ソレ」を見つめる。
白い背中には大きな傷。えぐり取られたようなそこにはおそらく対で翼が存在していたとわかる。
したたり落ちる鮮血の勢いが、傷を負ってまだ間もないことをしらせている。     
「でも……血が出てる
 ……たくさん。」
言葉少なな少女は去る気配はない。なぜかこの存在を放置できなかったから。
「……我に関わってはならぬ。
 ……死にはせぬ……。しばし休めば大事ない。」
「……だめ。」
綸はそっとソレに近づいてゆく。
「来るな…我に触れるなっ!」
荒げた声とともにむせる。内臓への負荷がしれるように鮮血が唇からほとばしった。
落下の衝動に内臓が損なわれたらしい。
背中の傷よりもそちらの回復にしばらくの時間がかかると内心毒づいてるうち、少女の手が額に触れていた。
「……っ!
 おまえっ」
ただ自分がまだ記憶のない頃に母にされたであろう行為。
ひんやりとした手の感覚だけが綸の心の深いところに確かにあった。
その感覚の記憶の再現。
この世でひとりぼっちの綸のしる、かすかな母のぬくもりでもあった。
「大丈夫……すぐによくなるわ。」
 綸がつぶやいた。その小さな手の触れたところから流れ込む何か。
 その感覚に驚く。
 けれど、それは一瞬。やがて異形のものは意識を手放した。


     ■


「……。」
朝日がまぶしくて目覚める。
おぼろげな記憶。細めた目に入ってくる景色。そして思い至る。
あわてて周囲を見渡し傍らで眠る小さな少女の姿をみとめた。
「我は……そうだ!」
身を起こしたその姿は神々しくもある容姿。
背中に流れる髪は豊かな銀髪。長い髪の合間から背に生えた白い翼。
けれど片方はむごたらしく折られ、もがれたその痕跡をとどめているばかり。
昨夜の背を焼く痛みと地上にたたきつけられた衝撃が瞬間、体によみがえる。
     堕天。
まさか自分がその憂き目をみるとは思いもしなかった。


   ■


天界のあまたいる天使の上級に位置し、さらには天使達を統べていた自分に下された沙汰。
愛しき存在を奪われたあの憎しみが再び胸によみがえった。
神という存在に常々不信を抱いていた恋人がかつて神の扉をたたいたのはいつだったか。
 『天界の禁忌』
その禁忌をおかした罪科を、恋人である自分が科せねばならぬという恨めしくもある運命とあらがえぬ実際。
どうしてと疑問ばかりが心をよぎるが、発せられた任務には従わねばならぬという自分が地位。
追い詰めた恋人の最後の瞳の静かさ。
思い出しただけで心が鮮血をしたたらせる。
輪廻をたたれた恋人はどこへ…。
存在することさえも許されないのか…と
漆黒の闇に霧散するように消えていったその様子がまざまざと目裏にうかんだ。
そして、その日からはじまった自問の日々。
やがて心の浮かぶのは、答えのない問いかけ。
すべてを許すのが神ではないのか?
神は救う存在ではなかったか?
神に対話した結果、咎人とされるのはおかしいのではないか?

次第、神という存在への不信、神の不在が心を占めていくばかり。
気づけば、かつて恋人と同様に神の扉の前にたっていた。
目の前にすべてを拒絶するかのようにそびえる大扉。その前にたたずむ。
自ら光を発するように輝く扉に対峙した長身は威風堂々たる大天使の姿。
それは幾日も、幾日の続いた。
幾たびそうしていただろう。
自分でもわからなくなったころ、誰かが問う声がした。
直接に脳内に響く、そして美しい調べのような声。
「汝、カイ、我を愛すか?」
「……。」
とっさに言葉を失った瞬間背を焼く痛みが走った。振り返ればそこにいたのはかつての恋人。
驚きに目を見開くも、恋人の目はうつろで、自分の姿さえ写していない。
その様子は何かに操られるよう。自分を認識しないままに襲いかかってくる。
背に受けた一撃の痛みに意識がかすむ。
その背の翼を、その細い腕からは想像できないほど強い力でつかむと、反対の手に握っていた大きな剣を勢いよく振り下ろした。
よけることもできず、その白い翼がたたき折られる。
その激痛にうめく間もなく、その付け根からもぎ取られてゆく。
視界に舞う白い羽。
経験したことのない痛みと苦痛。天界にあって感じることのなかった感覚に声も出ない。
「神よ…あなたを我は憎むっ!」
言うと同時、視界を失い、そして足下が緩む。
途端にバランスをうしない、真っ逆さまに堕ちた。

それは永遠に続くとも思われる闇の世界だった。
思いはせるは、かつて闇に消えた恋人の最後の顔だった。
「ああ、おまえはあの時こんな気持ちだったのだな。」
つぶやきながら静かに目を閉じた。  


     ■


「恐れを知らぬだけなのか。
 それとも聖女か……。
 異形のこの姿をこの少女は……。」
すやすやと朝日のなか眠る少女の頬はうっすらと紅く輝くようにも見える。
そっと起こさぬようにカイは少女を注意深く観察した。
なめらかな頬、白い肌、そして閉じていてもわかる聡明な目元。
その静かな瞳を思い出して、カイは子供らしからぬ気配を感じていた。
服装を見る限り、あまり裕福とは言えない様子である。
そっと額にかかる髪をその指ですくうと、知性感じる額があらわになる。
そこにそっと手をかざせば、少女の記憶が鮮明にカイの中に流れ込んでくる。
自分と関わったことはこの少女にとっては必要のない記憶。
堕天したとはいえ本来人間とともにあってはならぬ存在である自分と関わることはタブー。
かねてからの定めに従い記憶を消去しなくてはならない。

けれど……。
消そうとしても消せない……、むしろ流れ込んでくる記憶をとめられない。
少女の名前、そして過去……。
生きてきた年数に比して膨大な感情の記憶。
昨夜の記憶を見終わった時には、カイの頬には幾筋もの涙が伝っていた。
呆然と見下ろしているカイの眼下、きれいな瞳が開き、純粋な色をみせて不思議そうに見上げた。
「元気になった?」
柔らかくほほえんだその小さな顔をカイは大きな手のひらで優しく包んだ。
「…ありがとう。」
カイの口からこぼれたのは感謝の言葉。
昨日の胸を黒く染めていた憎しみという感情が嘘のようにすっきりと晴れ渡っている。

何もかもが信じられなくなっていた。堕天の瞬間にすべてを失った。
信仰、地位、そして真実まで。
神はあの扉のうちにあったのか、はたまた不在だったのか。
恋人にもぎ取られた翼。恋人の罪科の真相は……。
すべてが闇の中。カイにはもはやそれを取り戻す手立てはないという絶望。
しかし、たたきつけられた地上にカイの「救い」はあった……。
何も信じない、自分の存在の否定。
それをこの少女はカイの心の中からぬぐい去ってくれた。
小さな手のひらからつたわったひんやりとしたあの感覚がまた、カイによみがえってきた。
ひんやりとした感覚に反して、心にあたたかな感情が流れ込んできた。
それはカイの内の暗い感情を癒しそのぬくもりに包まれたとき、カイは意識を手放したのだった。

「もう痛くない?」
 静かな声がカイを気遣う。
「大丈夫だ……。」
「そう。よかった……。」
 静かな瞳が細められて、小さな手がカイの頬に伸ばされる。冷たい手。
「冷えたな……。」
 カイはその手を引くと、そのまま腕の中に抱き込んだ。
一瞬身を固くする綸の様子に。かつての記憶を重ねてカイはなだめるでもなく、そっと綸が感覚になじむのを待っていた。
小さな頃から人に抱きしめられた過去を持たない少女。
「お兄さんはどこから来たの?
 お空の上?」
 小さな声が問いかけた。
「そんなもことをきいてどうする?」
「私、行ってみたいのお空の上。
 シスター・ステラ がいうの。『綸、あなたのお父さんとお母さんは お空の上にいるのよ。』 って。
 私会いたいの。」
うつむいたまま腕の中でそう言った綸を、カイはぎゅっと抱きしめた。
「何?苦しいわ。お兄さん。」
「カイと呼べばいい。
 お前は戻らなければ心配する人がいるだろう。
 さぁ戻れ。」  
綸の記憶の中、優しくほほえむシスターの記憶。
おそらく綸のいうシスター・ステラであろう、初老の女性の顔をおもいうかべ、カイは言った。
「そうね…きっとシスター・ステラはまた抜け出した私を捜してる。
 こんなに日が高くまで昇っているから、大騒ぎして捜しまわっているわ。」
「お前は心配してくれる存在がいる。
 空の上にはまだいけないよ。
 そのときが来れば、今日の礼に私が連れて行ってあげよう。
 そのときが来れば……。」
どす黒い感情に支配され、身も心も漆黒に染まると思っていたカイの心に優しい光をもたらした少女。
その存在にカイは感謝を覚えていた。それが証拠に自らの翼は白いまま。汚れることなく朝日をはじき光っていた。
時とともに天に戻る日の可能性を残して。
幸いにして天使たる自分には寿命という物はないのだから。
人の短い一生と比すれば永遠の命を持つ存在と言える。この少女の一生を見守ることなどカイにとっては一瞬ともいえるもの。
「ねぇ、お兄さんとまた会える?」
「そうだな……いつかは。」
「『いつか』っていつ?
 大人はいつもそういうのよ『いつか』って。」
その口ぶりが思いがけず子供っぽく、老成した印象ばかりを受けていたカイは
思わず小さく笑ってしまった。
「あら、笑うのね。お兄さん。
 ずっと無表情だから笑わないのかと思ってたわ。」